書評「『経済政策』はこれでよいか」

伊東光晴著(福井県立大学教授) 岩波書店

1,680円 1999.2.10発行

 アメリカのルービン財務長官にいわれて、野中官房長官はついに禁じ手である国債の日銀引き受けを言い出した。ルービン財務長官はウオール街の出身であり、ウオール街の意向が発言の背景にある。強いドル=ドル高=ウオール街への資金還流を重視する。ドル高でなければ現在のウオール街の株高=米国のバブル景気は維持できない。その歯車が崩壊の瀬戸際に立っている。それを何としても、阻止したいのである。

 国債の大量発行により、日本の長期金利が上昇し、日米の金利差がなくなりつつある。ウオール街の株価を支えてきた日本の資金が、ウオール街に還流しなくなりつつある。そこで、金利を下げるため、国債を日銀が買えというのである。国債の金利上昇は、旧態然たる財政構造の下、赤字国債を元手に、またまた公共事業ばらまきの予算編成を組んだことにある。さらに地域振興券のおまけまでつけたのである。ようするに国債が大量過ぎて、市場では吸収できないので、金利が高くならないと(買い手にとっては安くないと)買い手がいないのである。

 日本は1986年以来ずっと米国のいうとおりにやってきた。その結果が、バブルであり、バブルの崩壊であり、今回の不況であり、赤字国債の大量発行による財政のパンクではないのか。その大元締めが宮沢大蔵大臣である。この国の政治家はいったい誰に奉仕しようとしているのか。マスコミはなぜこうした政治家の発言を黙ってみているのだけなのか。

 著者はこうした疑問に歯に衣を着せず、すっきりと答えてくれる。「アメリカの経済力の中心は金融である。…発展途上国にとって必要な資金は、長期の安定的な、新しい設備投資になり生産能力を生む資金である。しかし、ウオール街=財務省複合体が求めるのは、そうしたものの自由移動に名をかりた短期資金の移動である。それがもたらす変動−それこそ、投資銀行の源泉である。だがその多くがゼロ・サム社会の世界である…」と。ようするに博打の世界なのである。著者の調査によると、世界の株式市場の時価総額の比較では、アメリカを100として、英国が22.7%日本が19.3%であるが、アジアの金融センターといわれる香港でさえ2.7%、タイではたったの0.17%、インドネシアにいたっては0.13%に過ぎない。これでは、ゼロ・サムゲームにおいては、最初から勝敗は明らかであろう。

 2月に入り、宮澤大蔵大臣や野中官房長官はルービン財務長官の“声”にしたがい、金利のさらなる低め誘導により、円安政策をとろうとしているが、著者はこうした円安政策にも疑問を投げかける。「日本がアジア諸国の経済を真剣に考えるならば円を高めなければいけない。円を安くするという政策で日本の経済を切り開くのではなくて、円を上げなければいけない。だから口でアジアの経済と日本は一体化していくというようなことを言っ……てもしょうがないことであって、円の価値をどうするかという問題を考えていかなければいけない。」と。

 日銀のさらなる金利の低め誘導により、定期預金金利も連動してさらに低下している。その低金利政策の功罪について著者は言う。「今日、低金利政策が分配関係に大きな影響を与えていることを否定する人はいない…1990年代前半、預金者から金融機関に年間6兆円の所得シフトが生じていた。…金利引下げによって効果を持つ投資は一部上場企業の0.25%にすぎない。…それなのに新古典派や、合理的期待形成論や、そのほかの反ケインズ派は1990年代になると、景気政策のために金利を下げよ、そして景気対策を打てと言っている。なぜ日本人は現実から理論が正しいかどうかを論じないのであろうか。…国家財政についても決してプラスの政策ではなかった。低金利政策が厚生年金、あるいは社会保障の基金、それらを破壊に導いている」と。ようするに新古典派経済学の論客が誰の代弁者か明らかであろう。年金財政を破壊の渕に追いやろうとし、さらにはそうした不安心理につけ込んで401k年金なるものを推奨するのも、こうした延長にあると考えたい。 

 本書の最後に今日の景気対策にふれる。「東アジアは日本を始めとする先進国の海外投資の対象地域になっている。これを先進国側から見れば、政府が景気対策を打ち、その結果、企業は経営に余裕が出ると、投資のより多くが海外にという傾向になる。」「海外に投資される分が有効需要として海外に漏れるということであり、…その分、民間需要は縮小せざるをえない。それを公共投資によって補っている…こうした民間企業の行動を放置して財政に支援を求めても効果が生まれない。」「設備の更新期と有効需要政策とが合体したとき、景気が上昇する」と。政府はこれまで80兆円もの公共投資を麻薬のように打ち続けてきたが、その効果は限られるいる。しかも、その公共投資の中身が問題である。この20年、道路・河川・港湾・農業土木等の投資割合にほとんど変化はない。「政府投資の内容にかかわる問題…それが産業連関的に有効需要を増大・波及させる効果を持つものかどうかが重要である。」著者はケインズ政策を高齢化社会に活かす道として、高齢化対策住宅への投資を提案する。「今後50年、何を目標にするかを考えるとき、こうしたものに対して、政府の介入、人間社会のために資金を投入する。…『投資の社会化』が必要なのである。膨大な赤字国債の発行を投機失敗と放漫経営の救済だけに使う政策は政策の名に値しない。」

 著者はきわめて厳しい言葉で最後を締めくくっている。あるときは「財政再建」を唱えたかと思うと、次は「景気対策のための公共投資」を叫ぶ無責任なエコノミストが多い中で、実に辛口の、首尾一貫した提言である。